■ 後祭 / きむら秀一 —————こんなご馳走は、久しぶりだ。      そう思う自分に、苦笑した。 ここは映画館正面のハンバーガーショップ。 二ヶ月ぶりのジャンクフードに狂喜する自己。 一切のアルバイトを禁じられている身には、580円 のセットは高嶺の花だ。平日半額の65円バーガーを 食べればよさそうなものだが、購買のパンと比べる とその体積比は明らかで、どうしても手が出ない。 アルクウェイドと一緒にこの店に来たのは遥か昔。 結局、有彦の宿題肩代わりと言う労働の対価として 奢ってもらうまで、この店に来る事はなかった。 ちなみに当の有彦は涙ながらにナゲットをほおばる 連れの対処に困ったためか、突然急用を思い出して そそくさと帰ってしまっている。…案外気が弱い。 それにしても、日頃琥珀さんの作るあれだけの料理 を食べているというのに、こんなコレステロールの 塊を美味いと思う自分はどうかしている。 そうは思いつつも油のたっぷり沁みたポテトを次々 口に運ぶ手の動きに遅滞はない。身体は正直だ。 夕方。この手の店がいちばん混雑する時間。 斜に射し込んだ赤紫色した陽光の残滓が人や通路に メランコリックな彩色を施し、天井からは蛍光灯の 無機質な明かりが人工的な白さで余計な色彩を消去 してゆく。その昼と夜のはざま、オレンジと無色の せめぎあう中で、色とりどりの人々が同じトレイを 囲んでさざめいていた。 そんな空間で派手な音を立ててバーガーをむさぼる 姿と言うのは、奇妙な闖入者以外の何者でもない。 周囲の席を埋め尽くし、あるいは席を探して辺りを トレイと共に徘徊する人達の目は、いささかの好奇 とちょっぴり嫌悪の含まれたビームをこちらに向け 集中照射している。 しかしこの程度で怯む遠野志貴ではない。 むしろより増速した両手が最後のバーガーの欠片と 複数本のポテトを同時に口に放りこんで。 「…っ!」 ちょい、むせた。 喉に詰まったポテトだかバーガーだかを炭酸飲料で 流し込んで、ふう、と一息。 いよいよ最後。 前屈みになっていた姿勢を正しつつトレイに残った ナゲットとポテトに向け、ややオーバーアクション 気味に大きく両手を振り上げ—————そして。 振り上げた手が、店を出ようとしていた女の人に、 軽く、ととん、っという音を立てて、ぶつかった。 そのひとは、一瞬通りすぎてからくるりとターン。 長いスカートを翻し、振り返ってこちらを見る。 視界の隅にそれを収めて、反射的に謝ろうと思う。 だけど、身体は止まってくれない。 ひとまず、目の前にある最後のナゲットとポテトを 同時に口に突っ込んで、指ごとそれを咀嚼する。 んぐんぐんぐぐ。停止した呼吸と口中の物体を同時 に炭酸飲料で呑み込んで。 ようやく、先刻の女の人に、目を向けた。 赤く、長い髪。かばん、いやトランク。 そしてなにより、その、瞳。 0.125秒で全ての神経が麻痺し、硬直する。 筋肉硬直。眼球硬直。思考硬直。心臓硬直。 硬直。硬直。さらに硬直。 そこには、振り返った姿勢のまま、先生が、いた。 面白そうに光を目に湛え、口元は笑いのカタチ。 見られた。           恥ずかしさによる血圧上昇。 ど、どうしたら    顔面は赤色を呈し脳内伝達断裂機構の抑制。 なんで先生がこんなとこに                 変態する理性。 穴を掘って入らなきゃ!             状況。掘削を切に望む。 ぐるぐるぐるぐる世界が回る。メリーゴーランド。 完全に真実を喪失せる脳を格納する前頭部を収納 する皮膚を内蔵する骨格。 迫ってくる指が白い。 曲がって。くるくるとねじれて。 伸ばされ。はじかれ。 先生のでこピンで正気に戻った。 「君はよっぽど貧しい食生活をしているのね」 開口一番言い放たれて、しばし言の葉を失う。 なにも言えず、ただぱくぱくと口だけ動かす。 声を出そうとしたが、擦れた変な音しかしない。 一度、二度と胸に手を当てて深呼吸する。 はっ、はぁっ、はあ……おさまった。 どうにか単語を搾り出す。 「ど、どうして、先生が、こんな、とこに」 それが、先生との三たびの邂逅の挨拶だった。 我ながら間抜けな返事だと思ったが後の祭。 長い髪を揺らして先生は愉快そうに目を細めた。 「ちょっとだけ仕事があったのよ。  ま、ぶっちゃけて言うと身内の不始末対策かな。  それで、早目に終わったからたまには街でも散歩  してみようかと思ったんだけど…」 「それで、ファーストフードですか?」 「なんか混んでたから、おもしろそうだな、って」 まあどうみても魔法使い向けの食べ物じゃないから すぐに出ようと思ったんだけどね、と付け加えて、 口の周りを汚した俺を見下し上げる。 「まさかここで志貴に会うとは思わなかったわ。」 「す…すいません、ぶつかっちゃったりして…」 「ほんとは文句のひとつやふたつ、言ってやろうと  思ったんだけどね。見たらそれが志貴でしょ?   何やってるのかと思ったら……」 涙と汗と鼻水と、体液と言う体液を垂れ流しつつ、 半狂乱でポテト食ってる俺が居たわけですか。 「ううっ……」 思わず頭を抱えてしまう。 「あら? 頭痛かしら?」 「いえ…なんでもないです……」 しくしくしく。 自分の不甲斐なさに、ちょっと泣けた。 そのまま先生とふたり、話し込もうと思ったが…… この店の店員の女の子と、店長らしい壮年の男性が こちらをじっと見ている。 「あ、あの、なんでしょうか?」 恐る恐る、声をかける。すると。 「申し訳ありませんが……食事がお済みでしたら、  席を空けていただけませんか?」 —————店を追い出されてしまった。 ハンバーガーショップを出て、2人で人混みの街を 歩く。ふと、暮れなずむ街路に立ち止まる先生。 「ねえ、志貴。今日私と君が出会ったことに、何か  意味があると思う?」 ちょっと考えて、思った通りの事を口にしてみた。 「少なくとも…俺は、嬉しかったですけど。」 「ふうん…そっか。  それだけでも意味はあったってことかもね。」 今度は先生が考え込むしぐさ。 ややあって顔を上げたとき、先生の瞳にはいたずら っぽい好奇心の光が宿っていた。 「志貴はこの街、詳しいの?」 「え、ええ…まあ。いちおうは。なんだかんだで…  10年ばかり暮らしてますから。」 といっても8年前までは屋敷の中しか知らなかった 気もするけど。それはこの際置いておこう。 「じゃ、これも『かみさまの意思』ってことにして  君にこの辺、案内してもらおうかな」 どこにでもあるありふれたゲームセンター。 人で賑わう繁華街。先生といっしょに街を歩いた。 やがて。宵の帳が世界を覆う。黒くなってゆく空。 完全に太陽の力が消えて。そして、入れ替わりに。 月が出ていた。 いつのまにか、繁華街を外れて、野原に出ていた。 街外れの草原には喧騒もほとんど届かない。ただ、 冴え渡る風の音だけが木々の葉擦れと唱和するのみ いつかの光景を重ね合わせて、その時が来たことを 知った。 「今日はありがとうね、志貴。」 もう一度振り返って、先生は言う。 『人間』の色を失った魔術師の目で。 だけど、そこにはなお先生らしい感情の残滓が光と なって揺れていて、こちらの寂しさに沈みかけた心 に僅かでも明かりを燈してくれた。 「……」 「楽しかったわよ、本当に。君はもう、素敵な男の  人になろうとしてるのかもね。」 にっ、と笑った先生の顔。それを直視してしまって ほんの少しだけ、どきりとした。 「そんなこと…ないですよ。」 「今日のお礼にちょっとしたプレゼントをあげる。  本当は私の力だけじゃ出来ないんだけど、ここは  特別な街だし、薬もあるから。」 もらいものだけどね、と言いながら先生は小さな瓶 を手のひらに載せる。 茶色い硝子で遮光された小さな薬瓶。 瓶の口は三角錐の形の栓で閉じられ、蓋と瓶の擦り 合わせ部分には半透明のテープか何かがぴっちりと 巻かれていた。 瓶に張られた金属光沢を放つ黒いラベル。そこには 銀色の文字で記されたPOLYMORPH of Wishの文字。 それ以外にも何やら書かれているけど、見た事無い 文字ばかりで、さすがに読む事は出来なかった。 「これを飲めば志貴は自分の望む志貴になれるわ。  もちろん、志貴であることを止める事は出来ない  から限度はある。でも、それは少なからず貴方の  心と身体に影響を及ぼすでしょうね。」 「それは…悪い影響ですか?」 「そんなことないわ。君が望む自分に近づくだけ。  でも、必ずしもそれが幸せな結果に繋がるのか…  私にも、判らない。」 「良い結果になるか悪い結果になるかは俺の心次第  、ってことですか…」 「どうする? 無理にとは言わない。私としては、  今の志貴が好きよ。でも志貴には、もっと幸せに  なる道があるかもしれない。そういうこと。」 「薬の効果は、いつまでなんですか?」 「私の魔術が切れるか、あるいは、あなたが心から  元に戻りたいと願ったときまで。でも、この薬は  脳にも…つまり心にも影響を及ぼすの。」 もし変わってしまったら、戻りたいと思う心さえ、 無くなるかもしれない……そういう事か。 「どうするの、志貴? 決めるのはあなたよ?」 「先生、俺は……」 先生のことをじっと見つめた。 蒼く青い、どこまでも深い紺碧の湖。その瞳に映る 天空の中に、遠野志貴が立っていた。 ふと、回想する。 もしこの人に会えなかったなら、自分はどうなって いただろうと。そして、これからの自分について。 ここで先生と出会った事が何らかの意味を持つもの ならば。それを試してみたいと、そう、思った。 今の自分は嫌いじゃない。今の生活は好きだ。 だから。 もし遠野志貴が今の志貴のままである事を迷いなく 望んでいるのなら。 魔法の効果は、現れない。 もしかしたら、ちょっとだけ体が丈夫になったりは するかもしれないけど、そのへんはご愛嬌だ。 自分が自分を、今の世界を好きである事を確認する ただそのために。 薬の瓶を、先生の手から、受け取った。 風が渡る。青と共に。 すぐ向こうには先生の後ろ姿。 最後に先生は、もう一度だけ振り返った。 その姿を雲間から白い月光が照らし上げる。 「また会いましょう志貴。…それじゃ、ね。」 風と共に掻き消える刹那、先生の瞳に、なんだか… 子供みたいな笑みの光を見たように思った。でも、 それは一瞬のことで。その意味を確かめる間もなく 先生の姿など最初から存在しなかったように、ただ 天に輝く月だけが自分を見つめていた。 先生は、また、去って行った。でも悲しくはない。 ———何故なら、また、必ず会えるはずだから。 屋敷に帰って、ベッドに横になる。 窓から鋭角に射し込む月光の中で、先生にもらった 薬の瓶を開いた。 先生の魔法が発動するのは、今晩中に限られる。 意を決して、小さな小さな瓶を斜めに傾けた。 小さな開口部から、青紫色に光る液体が流れ出す。 とろとろと滴るそれを口に受け、含み、嚥下する。 そのとき、脳裏に、先生の姿が、浮かんだ。 意識がすこし、遠くなる感覚。貧血に似ている。 そのまま、ベッドに倒れこんだ。 薬の味なんてわからない。苦いような気もするし、 甘いような気もする。ただ、体が熱くなってゆく、 それだけを意識して、目を閉じた。 …… ————あさ。 あれ? たたみのにおいがしない。 みたことないベッドで僕はねていた。 ここ、どこだろう。 …あ、そうだ。ここは  の部屋。 だから、僕の部屋。そうおそわったから。 こんこん、ノックの音がする。 「志貴さま、起きていらっしゃいますか?」 そういって、しらない女の人がはいってきた。 「おねえちゃん、だれ?」 「え…!? 志貴…志貴…さま…?」 女の人はびっくりしている。なんだかあわてている みたいだ。 「そんな…嘘…でも、間違い…ない…なんで…?」 女の人はゆかにぺたりとすわったまま、僕をみて、 小さなこえでおんなじことをくりかえしてる。 「だいじょうぶ? おねえちゃん?」 女の人はこたえない。 しょうがないから寝巻のまま僕は部屋の外にでた。 洋服はなんだかぶかぶかで、ずるずるとひきずって 歩かなきゃいけない。どうして僕はこんな大きい服 を着てるんだろう。あとで着替えなきゃ。 …なにか変だ。いつもの屋敷なのに、少しちがう。 みたことない廊下。歩いているうち、見覚えのある とこにきた。ここは居間だ。ぼくと  とあきはが よくお茶をのむところ。 居間にはしらない女の人ふたりがいた。 紅茶のいいにおい。 「あはようございます。」 とりあえず、あいさつする。 この屋敷には僕の知らない人たちがたくさんいる。 でも、ちゃんとあいさつしなければいけない。 がたっ、と音をたてて女の人たちふたりが椅子から 立ちあがってる。なんだか、固まっているみたい。 なぜだろう。なんで今日は、僕をみるとみんな変な 顔をするんだろうか。 そういえば。僕はいつのまに屋敷まで帰ってきたん だっけ。昨日も先生と話したあと、病室にもどった はずなのに。 僕がなやんでると、さっき僕の部屋に来た女の人が 居間に走りこんできた。よく見ると、お手伝いさん の格好をしてる。ああ、お手伝いさんだったんだ。 「姉さん、秋葉さま、志貴さまが…!」 その声で、それまで固まってた女の人たち2人も、 ようやく動きだした。でも、やっぱり慌てている。 「志貴…って…まさか、この子…」 「たしかに、昔の志貴さんにそっくりですねー…」 「琥珀。まさかとは思うけど、兄さんに隠し子とか  生き別れの兄弟なんて、いないわね?」 「はい。わたしが調べた限りではそのはずです…」 「翡翠。兄さんは、どうしたの?」 「あの…志貴さまの…お部屋には…この子しか…」 しどろもどろになってるお手伝いさん。 でも、面白いな。ひすいとか、こはくとか、あきは って、みんな僕たちの名前なのに。どうやらこの女 の人たちも同じ名前みたいだ。  と志貴みたい。 着物をきた黄色い目の女の人が、かがんで僕と同じ 目の高さに座った。 「ね、あなたの名前、教えてもらえませんか?」 「志貴だよ。遠野志貴。」 あれ? また、みんな固まってる。3人とも。 どうしよ。このまま放っておいていいんだろうか。 困っていたら、とつぜん、僕の部屋のほうから何か 大きな声がした。 「あれー? 志貴ぃー? いないのーっ?」 ぱたんと扉の開くおと。 そのまま、気配が近づいてくる。そして。 「えー? 志貴、なんでそんなかっこしてるの?」 そう言いながら 居間に入ってきたのは、やっぱり 知らない女の人。 白い髪、白い肌、紅い瞳。ものすごく綺麗だけど、 どこか恐い。それになんだか体が熱くなって。よく 判らないうちに右手で手刀を作り、指先を伸ばして 白い女の人に突きかかってしまう。 「ちょっ、ちょっと、どうしたのよ、志貴?」 女の人はひらひらと僕の突きをかわしてゆく。 正直、凄いと思った。 「志貴って、やっぱりこの子が兄さんなの!?」 「どうやらそうみたいですねー」 「……志貴さま……」 しばらく続けたけど、結局白い女の人には触れる事 さえ出来なくて、ふう、ふはあ、と息が上がった。 動きが止まると、白い女の人は白くて長い、冷たい 指で僕の額を小突いた。 「こら、志貴ったらいきなりなにするのよ。姿形を  いくら変えたって私には簡単にわかるんだから。  せっかく朝から起こしに来てあげたのに…」 なんだかこの女の人は僕の事を知っているようだ。 こっちをみながらぶつくさ文句を言っている。 「それにしても、なんで幼生体になってるわけ?  いっとくけど、あれはもう決まった事なんだから  幼生体になったくらいじゃ変更できないのよ?」 よく判らないことを言われた。 「でも志貴ってさすがねー。人間の肉体の制御能力  ってそんなに高くないはずなのに、幼生体にまで  退行成長できるんだもんね。…ん?」 くんくん、と僕のにおいをかいで。白い女の人は、 ひたり、っとこっちを見ていった。 「これ…ブルーの魔法じゃないの?」 「どうやらそうみたいですね。」 不意に、僕の後ろに気配があらわれた。 あわてて振り向くと、メガネをかけた青い髪の女の 人。なんだかこの屋敷は女の人ばかりだ。 「どうも遠野くんの気配が妙なので、ついつい気に  なって来ちゃいました。それにしても……なんで  協会の魔法使いが遠野くんに魔法を?」 「あ、シエル知らないんだ。もともと志貴のメガネ  って、ブルーが作ったのよ。なにかの理由でその  代価を取りに来た、ってとこじゃないかな。」 「え、ええっ! そうなんですかっ!?」 メガネの女の人は、ずずいっ、と僕につめよる。 「ちょ、ちょっと目を見せてくださいね…」 そして僕の目をじっと覗きこんだ。そして、ふう、 と安心したように息を吐いた。 「呪いの類ではないようです……純然たる正法術式  ですね。何か別要素も関与してるみたいですが。  どうしてこんなことになったんですか?」 「さあ。志貴に訊いてみたら?」 「無理でしょう。いまの遠野くんは記憶まで肉体に  ひきずられて幼時退行してるみたいですから。」 というより肉体が精神にひきずられてるみたいです けど、と呟いて、メガネの女の人は、はああ、っと ためいきひとつ。 「これで今日の予定もおじゃんですね…。せっかく  2人分予約しておいたんですけど…」 ぴきっ… なんか、一瞬にして空気が固まった。なぜか周りの 女の人たちからの視線が痛い。 ここにいては危険だと、からだが叫んでる。 はやく先生に会いにいこう。いつもの場所に行って 先生に会うんだ。 僕は、女の人達に聞いてみた。 「病院はどこか知りませんか? 病院の近くの野原  に行かなきゃ…先生と約束したから。」 メガネのお礼をしなきゃ……って、あれ? メガネ、どこだろう。そういえば、昨日やっとみえ なくしてもらったラクガキが見えたまま。 「あれ? メガネ、メガネ…っ!」 メガネをなくした。せっかく先生がつくってくれた 大事なメガネ。いそいで探さなきゃ。 「ねえ、志貴?」 さっきの白い女の人が僕の目をみつめる。 「もしかして、これ探してるの?」 その手のなかには僕のメガネ。とりかえそうとした けど、ささっと後ろに隠されてしまった。 「ふふん、やっぱりそうなんだ。悪いけど、ブルー  に会いに行くなんて私が許さない。これ以上私の  志貴にちょっかいかけられたくないしね。」 そう言いながら、くるくるとメガネを回している。 それをみて、お手伝いさんが怒ってくれた。 「やめてください! 志貴さまが可哀相です!」 「ええ〜、そんなあ〜」 お手伝いさんは白い女の人につかつか歩みよって、 僕のメガネをとりかえしてくれた。 「はい、志貴さま。大丈夫ですか?」 「うん、ありがとう。おねえさんの名前は?」 「…翡翠、です。」 ちょっと苦しそうな顔をして翡翠さんはいった。 「ふーん、あの子とおんなじ名前だね。…だったら  僕きっと、おねえさんのことも好きになれるよ!」 それを聞いたら、なんだか翡翠さんは赤くなった。 「志貴さん、長生きできないタイプですねー。」 「…ええ、そうね…昔からだったのね…」 結局、女の人達全員の名前を聞き終わったころには、 黄色い太陽がかたむきかけた日差しをそそいでいた。 ぐー。お腹がなる。 「あ、お腹空いたんですね、志貴さん。ちょっぴり  待っててください。すぐにご飯を作りますから」 そういって、ぱたぱたと琥珀さんがあるいていった。 僕は僕で、なんだか昨日よりも大分ぶかぶかになって しまったメガネをなんとか顔におちつかせようと必死 になっている。 苦労してるうちにご飯ができて、僕はそれをたべた。 「ふーん、遠野くんってテーブルマナーもしっかり  してるんですねー。感心しました。」 「そんなことより、兄さんを元に戻す方法とか何か  ないんですか、シエル先輩?」 「うーん、多分遠野くん本人が望めば解除できると  思うんですけど…」 「無理じゃないの? 志貴、ぜんぜんいまの境遇に  違和感とか嫌悪とか、持ってないみたいだし。」 「では、兄さんはずっとこのままと言う事……?」 「そうでもないよー。私が志貴を精神支配すれば、  わりと簡単に元に戻せると思うけど。」 「そんな事したら遠野くん、あなたの下僕になって  しまうじゃないですか! 絶対不許可ですっ!」 「でも他に方法ないでしょ。ならいいじゃない。」 「いいえ! わたしがなんとかしてみせますっ!」 「ふ〜ん、どうするつもり?」 「…っ…それは…」 「琥珀。あなたの力でなんとかならないの?」 「無理です秋葉さま。志貴さんが小さくなったせい  か、同調感応自体ができなくなっています。」 「だとすると、翡翠も同じということね……」 「………」 「とりあえず、遠野くんの言うとおりにしてみれば  なにかきっかけが掴めるかもしれませんね。もし  ブルーと接触すれば魔法解除を要請できます。」 「私は反対。せっかく志貴が大人しくなってるんだ  から、今のうちに……」 「あなたは黙っててください!」 ぶーぶー、と文句を言うアルクェイド。それでも、 なんだかあたたかい笑みを浮かべて、僕の頭を撫で てくれた。 翡翠が離れから洋服を持ってきてくれた。そのまま 琥珀に手伝ってもらって服を着替える。物陰でシエ ルがこっちをちらちら見てるのが恥ずかしかった。 「…シエル先輩、一体何を見ているんです?」 「あ、いえ、いやですね。もしかしたら遠野くんの  魔法を解くヒントが何か見つかるかなあ、って」 手をぶんぶんと振って言い訳するシエル。なんだか 妙に説得力のなさそうな喋りかたをしている。 最後に僕は、秋葉から僕の入院している病院の場所 を聞くことが出来た。みんなで車に乗って、病院へ 向かう。ほんの15分ほどで病院に着いた。 そこからは歩いた。今日はなぜか、いつもより体が 軽い気がする。すぐに、いつもの野原についた。 どこまでも澄み渡る蒼いそらを、オレンジ色に染ま った雲が流れていく。 地平線の彼方には、沈みかけた夕日。 でも、先生の姿は、どこにもない。 どこまでも続く草原の中に、一本だけ、大きな木が 生えていた。 「あれ…? こんな木、あったっけ…?」 つぶやいて、その木に近寄った。 後ろからは翡翠たちがついてくる。 その木のねもとには、切り株が一つあった。 とてもキレイに切断された、丸い切り口。 「この木、もしかして…」 そういえば、この場所は、あのときの場所だ。 よくみると、切り株の横から大きな木が伸びてる。 きっと、切り株から生えた芽が、大きくなってこの 木になったんだ。 「でも、なんでこんなに大きくなってるんだろ」 よくみると、その大きな木の幹には小さな張り紙。 そこに、蒼いボールペンで字が書かれている。 『ごめんなさい、志貴。こうなると判ってたのに、  私は君に干渉してしまった。だから、過去と現在  そして未来が集うこの場所に、メッセージを残し  ておきます。』 読んでいくうちに、涙が出た。先生とは、しばらく 会えない。たぶん、もう会えない。 『そのかわり、君にもうひとつだけ、とっておきの  プレゼントをあげる。必要ないと思うけど、もし  本当の自分と対峙しなければいけなくなったとき  それは何かの役に立つかもしれない。…だから』 読んでいるうちに、封じていた記憶が戻って行く。 魔法が解け、姿が元に戻った。ご丁寧に、洋服まで 昨日のままに戻っている。 見上げる視点から、見下ろす視点になって。 俺は紙に書かれた最後のメッセージに目をやった。 最後の文は、こう読めた。 『誕生日おめでとう、もうひとりの志貴。』 顔を、上げた。涙はもう、乾いている。 小さな紙を丁寧に折り畳んでポケットにしまう。 向こうからは秋葉たちが涙を浮かべて走ってくる。 …まあ、若干名ふてくされてるのもいるけど。 草原はいつまでも続いている。 この切り株のように、遠野志貴の心はあのときから 本来の意味での成長をやめていたのかもしれない。 素直で、まっすぐな、心。でも、もしかしたらその 傍らで、抑圧されたもうひとつの志貴の心は、深く 大きく枝葉を伸ばしていたのかもしれない。それは ヒトとしてものすごく不安定な在り方だ。 「でも俺は、この自分が、やっぱり好きですよ。」 誰にともなくそう呟いて。そしてようやくここから 完全に踏み出す事ができる気がした。 木に背を向けて、歩き出す。僕を待っていてくれる 俺のために駆けて来る、彼女達みんなに向かって。 /END